星野富弘に起きた事故とは?手足が不自由になった息子を支えた母の愛

星野富弘さんは、手足の自由を失った後、絵と詩が融合した「詩画」と呼ばれる独特の作品を生み出した詩人であり、画家です。

2024年4月28日に呼吸不全のため78歳で亡くなりましたが、存命中に描いた作品は全国各地で展示される「花の詩画展」で注目を集めました。

 

この記事では、星野さんの手足が不自由になった事故と、その息子を支えた母親 知野さんの愛情について書いていきます。

 

 

星野富弘の手足が不自由になってしまった事故はどのようにして起きた?

星野富弘さんは、1946年に群馬県みどり市の旧東村で生まれ、群馬大学を卒業後、中学校教員として勤務していました。

 

中学に赴任してたった2ヵ月しか経っていない1970年6月17日、クラブ活動(器械体操)の指導中、模範演技で空中回転したとき誤って頭部から転落してしまいます。

その結果、頸髄を損傷し首から下の自由を失うことになりました。

 

その時の様子を星野さんはこう回顧しています。

 

 「どうしたんだ、星野先生!」

田中先生が走ってきた。いつまでも起き上がろうとしない僕の様子を変に思って、誰かが呼んできたらしい。

「すみません。どうも首をやられてしまったらしいです。」

もっとも恐れていたことを、僕はなるべくなんでもなさそうに言った。まわりをびっしりと囲んでいる生徒たちの顔の間から、教頭や他の先生たちの顔がのぞいて見えた。

私はマットの上に倒れたまま体育館から運び出された。言葉はとぎれとぎれになり、呼吸が苦しくなっていった。

社会に出て、いざこれからという時だったのに、急に視界が真っ暗になったような感覚だったのはないでしょうか。

 

 

息子を支えた母親 知野の愛情

星野富弘さんの介護を献身的に行ったのは、彼の母親である知野さんです。

 

星野さんが手足の自由を失った際、知野さんは息子の全面的なサポートに尽力しました。

星野さんが入院中の食事や日常のケアはもちろん、感情が爆発する時も常にそばで支え続けました。

 

その頃の様子について、星野さんはこんなふうに回想しています。

 

手が動かないので、食事は三度三度母に口に入れてもらっていた。

あお向けに寝ただけだから、汁は大きなスプーンで口に流し込んでもらった。

体を動かすことがないのと、病院の食事時間の間隔が短いため腹が減らなかった。

そんなときの食事は、しかたなく食べるようなもので苦痛ですらあった。

そんな時、少しでも顔にこぼされたりすると、それを口実に食べるのをやめてしまった。

 

やはり食べたくない食事の時のことだった。母の手元が震えてスプーンの汁を僕の顔にこぼしてしまった。

わずかなことだけれど、カッとなってしまい、そのとたんに積もり積もっていたイライラがいきなり爆発してしまった。

どうしようもないほどに膨れ上がってしまった苛立ちを、投げつける相手は母しかいなかった。

 

僕は、口の中のご飯粒を母の顔に向けて吐き出し、怒鳴った。

「チキショウ。もう食わねえ。くそばばあ。」

ちらかったご飯粒を拾い集めながら、母は泣いていた。

「こんなに一生懸命やっているのに、くそばばあなんて言われるんだから・・・。」

「うるせい。俺なんかどうなったっていいんだ。生んでくれなけりゃよかったんだ。チキショウ。」

母は涙をふきながら、自分の食事に出て行き、しばらく帰ってこなかった。

 

不自由な体での生活にイライラを隠せない星野さんを献身的に介護していた知野さんのことをイメージすると涙が出てきますね。

 

さらに知野さんは、詩画作家として活動するようになった星野さんのこともサポートします。

絵の具を溶かしたり、紙をセットするなど、創作活動の裏側で重要な役割を果たしたのです。

 

知野さんの愛情と支えは、星野さんの作品や著書にもしばしば登場し、詩にも表現されています。

特に「ぺんぺん草のうた」という詩は、知野さんへの感謝と愛を表した作品で、後に歌にもなりました。

 

 

まとめ

星野富弘さんの手足が不自由になった事故と、その息子を支えた母親 知野さんの愛情についてまとめました。

 

星野さんは、逆境に負けずに美しい芸術を生み出した一人の画家として、多くの人々に希望を与えています。

そのすばらしい作品を作り続けた星野さんの背後には、母親 知野さんの献身的なサポートがあったんですね。

 

星野さんの遺した作品が、それを支えた人たちのエピソードとともに、これからも多くの心に光を灯し続けることを願ってやみません。